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About 櫻井剛

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So far 櫻井剛 has created 155 blog entries.

マイペース

先週、何年振りかに二日酔いになった。 もともと酒に強い方ではなく、呑んでも一晩で缶ビール1本程度だ。 美瑛町内で懇意にしている雑貨屋兼カフェのご店主で、時々夜の撮影に一緒に行く星友達と2年ほど前から、焼肉を一緒に食べようと約束し、やっとそれが実現した。 彼女の娘さんも、うちの長男と同い年で中学時代はクラスメートだったこともあり、今月それぞれの子供が巣立っていた話や、仕事の話、今後の美瑛のことなどを話した。 18時に入店し、自分では1時間半程度経ったと感じたころ、「もう閉店です」とお店の人に言われ、「焼肉屋なのに早い閉店だな」と思ったが、もう21時半だった。 あまりにも楽しく、あっという間の3時間半で、ついついお酒のペースが早くなり呑み過ぎたというわけである。 とても美味しく感じたお酒だったが、それ以来、身体がお酒を欲しない。 アルコールを飲まない妻に言わせると、「呑まなくても死なない」という。 美瑛の丘では、畑お越しなどの農作業が本格的になってきた。 あちこちで広大な農地をゆっくりと走るトラクターが見られる。 5月中旬を過ぎると露地もののアスパラが地面からニョキニョキと顔を出すが、ちょうど今頃、長けモサモサに枯れた去年の分を刈り取り燃やす作業も行われ、大地から狼煙のような煙が上がる。 その上をシベリアに帰る途中、美瑛に立ち寄った白鳥などの渡り鳥たちが行き交う。 観光客も少なく静かな季節。 まさに見た感じは長閑でのんびりといった風景ではある。 しかし住んでいる者にとっては、トラクターや草刈り機の整備、建物の補修や塗装のメンテナンス、ネズミなどの害獣対策などなど、やることは山ほどある。 都会から来る人には、「スローライフを手に入れ羨ましい」と言われることが多いが、都会とは違った忙しさがある。 都会にいても、田舎にいても、その忙しさをいかに楽しめるかだと思う。 マイペースに暮らすとは、決してのんびり暮らすということではない。 あくまでも自分のペースということであり、そのペースがのんびりの人もいれば、自分のようにいつもせかせか何かをしていることでマイペースを楽しむ人もいる。

2025-04-14T08:59:41+09:002025.04.14|

君に幸せあれ

今年の美瑛は雪解けが早く、道路だけではなく丘の畑の雪もなくなりかけている。 シベリアから本州などの南にわたる途中の白鳥も飛来し始め、シュカブラ上空を飛び、鳴き声や、低空飛行するときには羽音までも聞こえる。 さて、前回の続きで、長男が一人暮らしのため、家を出ていく件である。 高校を卒業したら、家を出て行くように言っていた張本人の僕が、出て行く日が近づくにつれ、寂しさが増していくような状況だ。 同世代の友達に聞くと、子供が出て行くと心にぽっかり穴が開いたようになるという。 はたして4月になり、いなくなった状況に耐えられるのか不安がつのる。 思い返せば、もっと色んなことをしてやればよかった、もう少し優しくしてやればよかった、など後悔しか頭に浮かばない。 長男は都会ではない地方都市にある国立大学と都会の私立大学に合格したのだが、自分に足りないものは、沢山の人と接し経験を積むことだと、都会にある私立大学を選択した。 国立と私立の授業料の差は、本人が奨学金を借り、就職してから返済するという覚悟を決めての選択だ。 僕が18歳の頃、若くして数百万円の債務を負うことなど、このような重大な決断はできなかった。 なんとなく合格した大学に行き、大学時代もなんとなく過ごしていたような気がする。 18年間、親らしいことは大してしてやれなかったが、知らないうちに強い意志を持った青年になっていた。これが、後悔だらけの子育ての中にある唯一の救いだ。 親から離れ生活すると、親から教えられたことが、正しかったと思うこともあれば、間違っていたのではないかと思うこともあり、徐々に価値観も変わってくるだろう。 この先4年間、都会の中で揉まれ、大きく成長した長男を見るのが楽しみだ。 目立たなくてもいい、自分が幸せだと思える人生を歩んでほしい。 「君に幸せあれ」

2025-03-27T17:28:39+09:002025.03.27|

別れの時(卒業シーズン)

3月になった。 毎シーズン、氷点下20℃を下回る日が少なくても3回はあるが、今シーズンの美瑛は、それがない。 おそらく、このまま春を迎えるのであろう。 3月といえば、卒業シーズンである。 うちには長男と次男の2人の男子がいる。 長男は高校3年生で、3月1日に卒業式があり、妻とともに参列してきた。 僕たちが子供だった頃、高校の卒業式に親が沢山出席していたような記憶はないが、両親ともに参列している家庭も多く、体育館には生徒より保護者の数の方が多い状態だった。 8年前、次男が保育園を卒園する際、僕は「父母の会の代表」をしていた関係で、卒園式での謝辞の大役を仰せつかった。 大変な役を引き受けてしまったと思いながらも、本番で支離滅裂なことを言わないよう、ちゃんと書面にして準備をしていた。 ありきたりな文章にせず、聞いている保護者や先生や来賓などが退屈しないよう、また、自分色を出そうと考え、何度か書き直し、本番に挑んだ。 登壇し、緊張はなかったものの、手にしたものを一行読んだとき、それは起こった。 目頭が熱くなり手元の字が見え辛く、声が震え発声がうまくできない。 涙を溢さぬよう、少し上を向きながら、眼球は下の紙を見るような状態。 読み進めながら、「いやー、自分の書いた文章で感動して涙を流しているなんて、恥ずかしいなぁ」と少し冷静さを取り戻すと、すすり泣く声が、会場のあちこちから聞こえる。保護者はおろか来賓の町長や町議会議員までが眼鏡を取り、涙を拭っている。 「退屈させなくて良かった。」と安心し最後まで読み終え、降壇し保護者席に向かうと、保護者から「あれはまずいわ。涙が止まらん。」と言われた。 自席につくと妻からひと言「自分の書いた文章で、なに泣いてるの」と笑われたが、妻の目も真っ赤だった。 今回の長男の卒業式でも、生徒たちは比較的冷静だが、何人かの保護者は我が子の成長に感動し、涙を流していた。卒業式とは、保護者のためのものなのかもしれない。 長男とは生まれてから1年365日を一緒に過ごし、18年間で約6,500日、ほぼ毎日顔を合わせてきて、それが当たり前のようになっていたが、今月末には、進学で家を出ていく。同じ、北海道内の大学ではあるが、1年で会える回数も5回程度あるかないか、これから先4年間でも20回ぐらいだろう。 このブログを書きながら、そんなことを考えると、画面が滲んで見え辛くなるのである。

2025-03-05T19:12:17+09:002025.03.05|

ポツンと立つ木が語るもの

今シーズンの美瑛は、気温が高めだ。 毎シーズン、氷点下20℃を下回る朝が5回はあるが、1回もない。 もう、2月下旬になるが、このまま終わってしまいそうな天候だ。 さて、今日は予告通り、美瑛の丘にポツンと立つ木の話をする。 よく、〇〇の木と呼ばれる木がある。名前のないポツンと立つ木も沢山ある。 丘の上のポツンと立つ木、確かに見栄えが良く、写真映えする。 思慮深い人は、それを見て「どうして、あんなところにポツンと木があるのか」と聞く。 それには、北海道の開拓の歴史と深い関りがある。 北海道は、約150年頃前から本州などの内地から移り住む人が増えた。所謂、入植(未開の地の開拓)だ。 ここ美瑛も少し遅れて入植がはじまった。 その頃、美瑛は、今のようななだらかな丘が続く風景ではなく、起伏はあるが深い森であった。 今のような広大な農地がある風景はどのようにして作られたのか。 その当時、日本には家制度があり、長男が家を継ぐというのが一般的であった。そのため、次男や三男等として生まれたため家督相続できない人や、また、家柄などの様々な事情で故郷を離れることになった人たちが、生活の糧を得ようと北海道に移り住んだと聞く。 当然ながら裕福ではなかった。 食べていくための、極寒に耐え、時にはヒグマやオオカミに襲われながらも、手作業で森の木を伐り、根にダイナマイトを仕掛けて爆破し、伐根し、耕作に適した土を入れるという途方もない作業が延々と続いたのである。そんな時に活躍したのが、馬で道産子といわれる農耕馬である。 一族や親戚同士で入植した人達も多く、壮絶な苦労をして切り開いた土地を兄弟や親戚同士で分け合った。 その際、土地の境界として植えられたのが、丘に立つ木だ。また、開拓が一定程度に達した記念として植えられた木もある。 ただ、その後も今のように機械が発達しているわけではなく、農作業には馬が重要な役割を担い、どの農家にも欠かせない存在であった。 農作業にトラクターが導入され、それが主流になったのが50年ほど前だ。 今、70歳代以上の農家さんは、若い頃、まだまだ馬たちと一緒に働いた世代だ。 畑を起こすときも、農作物を運搬するときにも、馬が活躍した。 トラクターやトラックとは違い馬は生き物である。人間と同じように年をとり、働けなくなり、やがて死ぬ。 農家は一緒に働いた馬を丁寧に供養した。 農家さんは言う、『一緒に働いてくれた馬が根元に眠っている木が多い』と。 そう、ポツンと立つ木には、土地の境界を示すほかに、馬のお墓でもあるという。 丘に立つ木は、そんな美瑛の歴史をじっと見守って来たのだ。 美瑛を旅する人には、安らかに眠る馬を驚かせないよう静かに丘を巡ってほしい。 そして、木を見ながら壮絶な歴史があったことを想像してほしい。 (注)ポツンと立つ木の中には、開拓の際に植えられたものなどではなく、畑の畔などに自然に生えてきたものもあります。

2025-02-20T09:55:25+09:002025.02.20|

質の高い観光

Instagramなどに投稿するため、所謂『映える写真を撮りたい』、言い換えれば、沢山の人に見てもらい『良い評価を得たい』という気持ちは、多くの人が持つ感情だと思う。 ただ、その気持ちだけが先行して、美しく見える理由や美味しく感じたり、楽しく感じるまでに至る理由を理解しようとしないのは、いかがなものなのかと思う。 聞いた話ではあるが、こんなことがあったらしい。 その一つは、こうである。 観光協会を通して美瑛の丘や森をめぐる観光ツアーガイドの申し込みがあった。2・3時間程度のツアーで、目的地までの移動中や見学ポイントでは、ガイドさんが観光マナー、美瑛の歴史や現状、それがなぜそこにあるかなどを、解説をしてくれる。 最近、そのツアーガイドを申し込む客層は若者の割合が増加しているようである。若い方に美瑛を知ってもらうことは喜ばしいことであるが、中には「解説はどうでもよいから、早く映えるところに連れて行ってくれ」というような客も増えているとのことだ。 もう一つは、人気のある飲食店で、到底食べきれないほどの料理を注文し、殆ど食べないで写真だけを撮るというような出来事が日常的にあるとのこと。 『金を払えば良いでしょ』という考え方なのかもしれないが、その料理を作った人に対しては、とても失礼なことだと思うし、舌で美瑛を感じようとしていない。実際、料理人も複雑な心境らしい。 美瑛では農地などの私有地への立ち入り問題が目立っているが、前述のようなことも、同様で、旅する際の地元への敬意の欠如が招いている出来事であると思う。 美瑛町の人口は9,600人、昨年の観光客数は240万人、明らかなオーバーツーリズムである。もちろん多くの方に美瑛を知って貰いたいが、それはあくまでも良識ある方に来てほしいのであって、美瑛を壊しに来る人には来てほしくない。そう思っているのは地元民に限らず、美瑛のことが本当に好きで、この地を訪れてくれる人も、そうだと信じている。 次回のブログでは、地元農家さんから聞いた美瑛の丘にポツンと立つ木の由来をお話する予定である(変更の場合あり)。

2025-02-05T09:29:18+09:002025.02.05|

人間なんて、ララーララララ、ラーラ♪

セブンスターの木の近くの白樺並木が伐採された。 伐採された経過は、美瑛町役場HPの美瑛町景観審議会(農業、観光業、飲食業、写真家等の町民で構成される町の諮問機関)で議論された記録が、公式なものとして掲載(令和6年度 第3回)されている。 その内容は次のとおりである。 ・白樺並木の日陰になることによる農作物の減収 ・落ち葉や訪問者が捨てるゴミを片付ける労力に苦慮 ・並木周辺で写真撮影する観光客が密集し、道路通行に著しい弊害が出ている という理由から、木の所有者から伐採したいと町に承認の要望があった。 これを受け、伐採について同審議会で審議された。 セブンスターの木は町の「重要景観樹木」に指定されているが、白樺並木はこれに該当しないとのことで、伐採は所有者の裁量によるという見解が示された。 公開されている資料を読むと、このように記載されているのであるが、たまたま同じ町内会に住む町長から町内会の新年会の場で聞いた話は、「実は、並木は町の道路用地に生えている」ということであった。町有地に生えているということは、立木法により登記されている樹木でない限り、基本的には土地の所有者のものになるため、白樺は町のものということになる。 審議会で示された所有者と異なるのである。 町の諮問機関で説明されている内容と違うとは、一体どういうことなのだろうか。 また、町議会議員や近隣の農家から聞いた話も少しずつ違うのである。 ただ、これらの話を自分なりに整理すると、何となく見えてくるものがあるが、推測を含むため、ここでは書かない。 今回、並木が伐採されたことで、全国ニュースになり地元でもちょっとした騒ぎになったが、騒いでいるのは、主に観光業や飲食業、写真家の間であって、美瑛を守ってきた農家は、いたって冷静のように感じる。 審議会の資料の「町としての考え方」にも示されているように、この並木がどうこうというよりも、今のこのオーバーツーリズム(マナーを理解しない一部の観光客)が問題である。 このようなことは、地域住民の生活を脅かすばかりか、善良な観光客をがっかりさせ、悪いイメージを植え付けることになる。 今、この地に住む者として、このことが問題なのである。 ただ、視点を変えると、どうなのかなと思う部分もある。 和人が本州から北海道に入り、各地のアイヌ民族部族のリーダーを言葉巧みに騙し、殺し、土地を奪っていったという事実がある。 時代が違い方法は違うものの、外国人観光客が押し寄せ、また、外国資本が土地を買いあさり金儲けの場とすること、それを脅威と感じている人も多くいると思うが、もしかすると、それが時代の流れというものかもしれない。 人は誰しも自分や自分が大切に思っている人のことを第一に考え、色々な意見を取り入れつつも、最終的には自分の幸せのために生きる。 自分もそうである。 ただ広い視点で見ると、それは一生をよりよく終えたいという個々の人間の欲から生まれる権利意識であり、これらの出来事は、それによる地球上の小競り合いなのかもしれない。 人間は自分の考えや行動を理由を付けて正当化したがる動物、「勝てば官軍」、真にそういうことだろう。 もし、地球外生命体がいて地球を見ているとすれば、人間の行動はさぞ滑稽に映るのだろう。

2025-01-19T22:58:25+09:002025.01.19|

冬のお客様

明けまして、おめでとうございます。 とはいうものの、既に今年が始まって4日目になる。 昨年は約130組、約270名の方にお越しいただいた。 大変ありがたいと同時に、いろんな方とお話ができ嬉しく思う。 年末から年始にかけても、隙間なくお客さんに来て頂いている。 冬のため、車の運転に不安がある方が多く、飲食店への送迎や丘の案内をする機会あり、車の中で沢山の話をするのであるが、最近の傾向として、初めて北海道に来る、それが今回の冬だ、という方が増えている。 10年以上前、美瑛で冬に観光客を見かけることもほとんどなく、見かけても写真家や写真愛好家が、真っ白の雪原をカメラに収めに来ているぐらいだった。 コロナの前あたりから、雪が降らない台湾の方が訪れるようになり、コロナ明け以降は韓国の方が爆発的に増えている。 これまでの日本の方の傾向としては、夏に初めて北海道に来て、冬を勧められ、怖いもの見たさで来るような感じだった。 ただ、一旦来てみると、想像していたより寒く感じないことと、何よりも真っ白な世界と、本州と違うサラサラの雪に感動する。 そして、今シーズンの冬から初めて北海道に来るのが今回だという人が、立て続けだ。 僕が「初めての北海道が冬なんて、挑戦者ですね」というと「真っ白な雪をどうしても見たかった」という。そして、「想像していた以上に綺麗だ」と。 シュカブラという宿を始めたいと思ったきっかけは、『冬にあんな寒い北海道なんかに行くものじゃない』と誤解している、僕の出身地である三重県の人たちや東京や大阪、名古屋など都会に住む人たちに、冬の素晴らしさを伝えたいためだ。 美瑛の宿泊施設を利用する人の6割が外国人、残りの4割が日本人だとの統計があるが、シュカブラを訪れる人の約95%が日本人である。 日本に住む方に、まだまだ、自国にも素晴らしい土地や感動する季節があることを知ってほしいという思いが、少しずつではあるが届き始めていることを嬉しく思うのである。

2025-01-04T07:03:17+09:002025.01.04|

挑戦への一歩

三重県から北海道に移住して25年目、四半世紀が過ぎようとしている。 27歳で初めて北海道を旅行し、まだ何も知らないにも関わらず、いずれこの地に住みたいと思った日のことを覚えている。 それから、夏と冬の合計8回程度訪れ、30歳で北の大地に移住してきた。 親戚や知人・友人も全くいない土地で暮らす不安が全くなかったかと言えば嘘になるが、生まれ育った土地ではなく、自ら選んだ地で暮らすことが出来ることの喜びや希望の方が遥かに勝っていたし、今のこの土地で暮らすことに希望があり、移住して良かったと思うのである。 先日、首都圏から20歳代後半のご夫婦がシュカブラに来られた。 丁度、僕が初めて北海道に来た年齢と同じくらいだ。 ご主人は初めての北海道、奥さんは2回目らしい。 一緒にドライブしながら話をしていると、「どうして北海道に移住したのか」「移住して良かったか」などを聞かれ、どうも何処か田舎に移住したいような雰囲気が伝わってきたため、ストレートに「移住しますか?」と聞いてみた。 現在、ご主人はシステムエンジニアとして、ほぼ在宅勤務をされているとのことであったが、田舎で宿泊業などのサービス業や農業などをやってみたいとのこと。 ただ、田舎暮らしをするために、住む地域や仕事のことなど何から手を付ければ良いかが分からないとのことであった。 誰でも新しいことを始めるときは、同じような感覚になり、自分もそうであった。 ただ、大事なのは、本当にやってみたいと思うことがあるのなら、それに向かって小さなことでも良いから何か行動を起こすこと。一歩を踏み出さないと何も変化しないし何も起きない。 何か行動を起こしたことで、それが直接的に役に立たない場合もあるが、それもその後の成功のための糧になるはずである。 不安を感じたり、変わらずこのままでいいかなと思ってしまう気持ちも分かるが、少しでも変化を望むなら、挑戦するしかない。それが、最初は小さな挑戦であっても良い。 彼が初めて泊まる宿で、初対面の僕に対し少し遠慮気味に「北海道に住んで良かったか?」と聞いたこと、そんなことの積み重ねが、彼の挑戦の一歩一歩となり、良い方向に進むきっかけとなることを、僕は願っている。

2024-12-16T20:59:51+09:002024.12.16|

いつまでもつのか、自分の身体

『あー、腰痛い』 先々週から『痛い』日が続いている。 腰の左側が痛み出し、数日経って少し良くなりかけたと思ったら、今度は右側に移り、それが治りかけたと思ったら、左足の股関節が少し腫れて熱を持ち、立ち上がることが辛くなった。痛み止めをのみ数日過ごし、軽快したと思ったら、今度は尾骶骨あたりが痛む。 「とうとう来てしまったか」と頭を過った。 何が来たのかというと、6年半前に脊髄梗塞を患い、医師には「おそらくもう一生歩くことは出来ないだろう」と宣告されたが、半年近くの闘病・リハビリ生活の後、下半身に痺れや痛みが残って障害者になった。医師の予想に反し歩けるようになったものの、回復後も医師には「高齢になると人より早い段階で歩けなくなるだろう」と言われており、その時が来たと思ったのだ。 他人から見ると障害があるとは気づかれないぐらいに歩けるようになっているのであるが、右脚と左脚の長さが5㎝ぐらいは違うような感覚があり、歩くときにはどうしても身体が少し傾き、片側に負荷がかかっているのと、無理にバランスを取ろうとするためか、お尻の筋肉で支えようとすることが出来ず、股関節などに余計な負荷が掛かってしまうのである。 そのような歩き方・立ち方になってしまうため、このままこれを継続してしまうと、当然、人より早く歩けなくなるというのは分かるが、「まあ、65歳ぐらいまでは、大丈夫だろう」と何の根拠もなく思っていた。 結果的に今回は、関節の違和感が以前より強くなったものの、歩けなくなることには至っていないが、また、いつ悪化するか、歩けなくなる日が近いのかと不安が残る。 歩けなくなっても、宿泊業の事務仕事はできる。 ただ、草刈りや除雪、施設メンテナンス、清掃など、妻と2人でほぼ全てをこなしている。なぜ、全てを自分たちでやるか、それはその一つひとつがただの業務でなく「明日来るお客さんはどんな人かな」「今日来る方は3回目だな、気に入ってくれているんだ」などと思い浮かべ、2人の拘りアクセントを吹き込み、自然と準備に力が入るのを感じながら作業することが楽しいのだ。この楽しみを他人に任せるわけにはいかない。 いつか、それができなくなってしまう日が来ることを覚悟し、それまでの日々を楽しく過ごしたい。 いよいよ、美瑛は真っ白な世界になってきた。先週からの雪はこのまま根雪になるだろう。 冬は最高に素晴らしいが、当然、スリップ事故などの危険も伴うため、決して油断してはいけない。 冬を見たいと来てくれるお客さんが、安全に楽しめるよう、執拗にサポートしたい。

2024-12-18T17:40:48+09:002024.12.01|

冬の丘案内の準備

北海道・美瑛は、そろそろ秋を終えようとしている。 10月中旬に1回目の積雪があり、11月初旬に2回目があった。 紅葉の最後を飾るカラマツの黄色い葉もピークを過ぎた。 美瑛への観光客の7割が訪れる白金青い池にも薄氷が張りはじめているようだ。 11月に入ると美瑛に来る観光客は急に減るが、うちの宿の特徴として、11月初旬は予約の取り合いになる。 それは、僕がカラマツの紅葉の美しさを、Instagramやブログ、また、夏など別の季節に来てくれた方に、晩秋をお勧めするからだ。 予約の取り合いになるくらいになり、少し、この季節をPRしすぎてしまったかなと思うのであるが、この時期に来られる方は、他の季節に来られる方より満足されているような気がし、また、秋に来たいという方が多い。 夏の花畑の時期に来られる方も美瑛・富良野を満足されているようであるが、やはりファーム富田や青い池、四季彩の丘などの有名観光スポットでは、9割が外国人観光客で渋谷のような人混みになっており、宿に到着されたときにはお疲れで中にはぐったりされている方もいる。 来週には気温が下がり、今シーズン3回目の雪が降る予報だ。 今の時期は、降っては溶けを繰り返すが、12月初旬には根雪(降って積もり溶け切らず、日々徐々に増えていくこと)になるだろう。 冬の真っ白な丘も人気だが、観光客のネックは冬道運転だ。 冬に訪れる人の半数はレンタカー、残り半数は公共交通機関やタクシーである。 やはり、レンタカーではない場合には行動が制限されてしまうため、そんな方は僕の車で丘を案内するようにしている。案内に使うのは26歳の時に貯金をはたいて購入したランドクルーザーだ。この11月で29年目を迎え、走行距離はもう少しで40万㎞に達する古くて非常に乗り心地が良くない車だ。このモデルが誕生したのが昭和59年、真に昭和世代だ。最近、若い世代にフィルムカメラが注目されているように、若い方は物珍しそうにこの車に乗ってくれる。 一昨日、毎年の車検から帰ってきたが、整備工場の工場長は「櫻井さんのこの車を整備すると今年も1年が終わったなと感じる」という。やはり、年数が経っているため、常時製造されていない部品もあり、熟練の技も必要でメンテナンスには時間がかかって大変のようだ。 世界中の荒野や紛争地帯で活躍している車だから、耐久性には問題ない。 この冬も、沢山のお客さんを乗せるための準備は完了した。

2024-11-16T17:19:45+09:002024.11.16|
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